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もと居酒屋店主だった池島が、インターネットビジネスに転向した経緯は? 居酒屋経営 → 情報起業 → アフィリエイト → ASP運営 → システム会社設立 会員制情報ビジネスコンサルティング ← サイト運営 ← サイトコンサル ←┘ 高卒の飲食店経営者が ネットビジネスに足を踏み入れて なんとかお陰様で生きていけてます。 17年やった飲食時代の収入を ネットの方では、ここ3年で上回っています。 ネットビジネスが6年目になるので 最初の2年半は厳しかったですね 二足の草鞋ということもありましたし 時間・体力・収入すべてが厳しかった。 なのでお陰様で、今はなんとかかんとか ここまで来ることが出来ました。 事業転換でも失敗もあるでしょうし 運が良かったと感じています。 ------------ ドキュメンタリーの始まりです ---------------------- 今日は、私の経営の失敗を暴露します 恥ずかしいですが、話します。 私は、ご存知のように もと居酒屋の店主でした。 中学の時「喫茶店を持つ」ことが夢だった 高校の時は、喫茶店でバイトもした 高卒で、喫茶でFC展開している会社に就職 就職試験も面接と作文だけで楽勝^^v 新入社員といっても、やることはホールからで バイトと変らないし、社会人とは!みたいな そんな固い感覚をもてない18歳のバカでした。 1年経過 本店に移動となり、後輩も入ってきて 最初は先輩面するのも楽しかったけど どんどんモチベーションが下がり 幾度となく「辞めます」といっていた が、辞めないまま時が過ぎ 大型商業施設内の新店オープンで配属 店長補佐などという肩書きが付いていた 商業施設のグランドオープンと同時だったので とんでもなく忙しく西日本の売上記録を更新した ・・・らしい その後、しばらくしてオープン景気も 落ち着いて、私も落ち着いてまたやる気なし。 人生に悩み、何してるんだろう 何がしたいんだろうって まったくモチベーションが上がらない もうアカン 1週間ぶっちして 北海道まで目的なく車で行ってました 当時は、携帯もない時代だから 連絡のつきようもなく知らんぷりです。 で、当然無職のハズがなぜか また働いていたんです その会社で・・・ なぜかはよく憶えてないし 会社も、よく許したなと思うのですが まあ、戻ってたわけです。 半年後 中途採用の社員が入ってきて いざ、私が店長となりました その後も、新入社員なども増えて 社員、バイトに恵まれて数値もまずまず その時のスタッフがすごく仲がよくて 自分の夢だった「喫茶店をもつ」を こいつらと実現しよう! そう強く感じたのでした もっと自分達のやりたい店を持とう そんな話ばかりしていて彼らもノリノリ状態です。 その後、私は本部に配属になったのですが そのスタッフたちとの交流を持ち続け夢を語っています 半年後 また地方のロードサイド1号店出店で オープニング店長で転勤辞令です 断りかけたんですけど ある条件を出して承諾しました 私と一緒に店を持つというバイトを 社員にしてその新店に一緒に連れて行くこと それが条件でした 案外ズムーズのOKでした^^ その頃は自分達のお店のことで頭が一杯だったので あくまで時間稼ぎでした。 半年後 辞表を出して、慰留を振り払い退職しました 彼らは、まだその会社に残って仕事しています 先に辞めて、バイトしながら「自分達の店」の 計画や構想を練っていたんです。 数ヵ月後、彼らも会社を辞めて神戸に集合です でも その時、私が21歳ですから 開店資金どうすんの?ってことですよね 実は親戚に少しお金を持っている叔母さんがいて その方に借りるという承諾を得ていたんです が、急に 「税理士に相談したら」 「そんな若者に数千万というお金を貸すことはリスクがある」 「だからゴメンナサイ」と。。。 手持ち資金なんて10万もない 今からみんなでバイトして貯めていたら 何年かかるねん! おいおい 一気に白紙に戻り どうするああする・・・と 私の家で、3人が集まって 求人誌をパラパラめくっていたら 住み込み派遣月収35万円〜みたいなのがあって これどう?とA君が言うので見てみると 愛知県の工場でした マジで!!!愛知はないやろ! でも見ている限りでは一番給料が高かったので 電話してみて、3人同時でも可能という返事 2週間後 愛知に出発してました そこから長い長い出稼ぎの旅が始まります 当時は、少しでもお金を貯めるようにバイトを かけもちしてまして、愛知へ出発する前日まで 働いていました。 それぞれに彼女もおり、同棲していたので 私のマンションを解約してA君のマンションに 女性だけ残して自分達は出稼ぎに行く 「半年ほどで帰ってくるから・・・」 愛知県の某大手自動車メーカー関連子会社で 車のシートを専門に作っている工場だった 古い団地のような寮に住み込み 出稼ぎ生活のスタートです それぞれみんな、バラバラのラインに回され 私は、シートのリクライニングの骨格部分を 作るラインでした。 大体、1ラインに8人くらいで、その内社員は 2人で、残りは20〜60代の派遣工員だった 自分の作業スペースの前に流れてきたものを ある一定の作業を施す ただ、それだけ そして、その繰り返し・・・ 1時間に1回の10分休憩とお昼1時間 それ以外は、延々と同じ作業が繰り返される。 数週間で作業にも慣れ、社員たちにも馴染むことができ 話しながら、作業できるようになっている ここでの収入は、失業保険やら食事代が引かれて 大体、30〜33万くらいの手取りだった その中から、私が33万で他のメンバーが30万を 自分達の夢の口座に貯金していく 手取りが30〜33万で33万を入れないといけない マイナスか手元は「ゼロ」です やることは、班長に「残業させてください」と頼み込んで 毎日毎日、ひとりだけ「長残」という最大限の労働時間を こなしていました。 1週間おきに朝番と遅番がローテーションされ 朝番の時だけ長残が可能なのですべて長残にしてもらった そうすると、手取りが35万くらいになるので なんとか生活できる それでも、寮の中にある「まずくて安い」食堂が 精一杯で、本当に極貧生活をしていた 3ヶ月に1回くらい、牛丼を食べれたりした時は 涙が出そうなくらい嬉しいのです。 そんな極貧生活で長残をしたり、土曜も働かして もらったりしながらも、日曜日には毎週みんなで ミーティングを行なっていた どういう、店にするか? 資金や売上計画に事業展望など まるで会社の会議のように真剣にやっていた あっ、この時点で「喫茶店」ではなく ダイニング(料理も出す店)に変更していた 理由は、喫茶の場合 朝のモーニングから始めて夜までの長時間営業でも 利益率が低いこと コーヒー自体は利益率は高いが全体としては生産性が低いことと 料理にも手を出して幅を広げたいという思いもあった その工場の会社は、言っても上場会社なので 夏や冬の休暇はしっかりとあったので その時は、彼女達を待たせている神戸に帰った 普通にごはんが食べられることが どれだけ幸せに感じたことか 最高の時間を過ごして、また団地のような 寮に戻って仕事が続く 料理とお酒を提供するダイニングから始めて 複数店展開し、さらにホテル(宿泊業)に 旅行業にも展開して、アフターファイブやオフタイムの オールインワン提供できる企業を目指そう! そんなことで盛り上がっておりました。 しかし、喫茶のドリンクやサンドウィッチなどの 簡単なフードくらいしか出来ないことから 狙いをつけたのが「居酒屋のFC」でした 百番や村さ来やお好みFCなども検討した結果 当時の最高粗利益率をはじき出してた「村さ来」に 的を絞って、中部(名古屋)の本部へ何度か足を運んだ 500〜600万くらいの自己資金でなんとかいけると 考えていたが、22歳の若造が自己資500万くらいじゃ どうしようもないね そんな劣悪な態度の村さ来本部スタッフに腹を立てながらも 自己資金がもっといるんだ、と考えてみんなに話した 愛知での出稼ぎ延長 当初、半年程度で捉えていたので 極貧生活も耐え忍んできたが これからまた半年も同じような生活をしないといけないのか・・・ でも仕方がない 自分達の夢の為 やりましょう! そうして、さらに長残と極貧生活が続いていった この時点でメンバーがもう一人増えていた 私が最後に店に立った、ロードサイド店のバイトだった子が 自分達の思いや描いていることに共鳴し国立大学を辞めて 参加してきた これで4名 月に130万位の貯蓄を続けた 結局、この出稼ぎは1年半に及び 全部で1700万ほどの貯蓄に成功し 各自50〜100万ほどマンション準備金などに 返還した残り1400万を資金とした 工場での最終日の最終定時のチャイムが鳴った時 作業帽を天井に向かって投げ放った この時の達成感・充実感・爽快感は 一生忘れることができない 1年半の出稼ぎを終えて、神戸に戻って それぞれみんなも住むところを借りて 準備を進める 1年半の極貧生活を耐えたご褒美に 全員で与論島へ旅行に行った これも至福の時間となりました。 そして仕事モードに戻って 関西地区の村さ来本部に何度も足を運んで 話を進めている時に、神戸の既存店をやりますか?と どうやら現在のFC店で赤字の店があり オーナーが手放したがっている店舗があるということらしい 損益表を見せてもらうと 年間で2000万くらいの赤字になっている 「げっ!」無理でしょうという感想だったが 百聞は・・・なので その店舗を数回視察したり 実際に研修という名目で働かせてもらった もちろん無報酬 立地は、沿線中最大の乗降客数を誇る駅前の ビルの2階で悪くない エリア性向としては 住宅立地で大学が多く学生の一人住まいが多い 実際に店舗で働いてみて 客の入り、スタッフの質、店長の管理能力などを みた時に、赤字の理由は管理ができていないことに尽きる そして集客は、サービスを上げることで可能 そう判断した。 村さ来本部へ連絡し、現オーナーと協議し 400万円で譲渡をしてもらうことになった ただ、25坪の店で保証金が1000万円と高く 自己資金のほとんどを使ったため譲渡代金は割賦にしてもらい 尚且つ、今後の借入の為の実績作りとして国金に400万借りた みんなそれぞれに目的をもってバイトしていた 一人は料理を、一人はダイニングを、一人はカフェを。 そして全員集合させて2週間研修に入り 12月1日に我々の店がついにスタートした(私が23歳時) オープンといっても、変ったのは 中のメンバーだけなので、お客さんからすれば 何も変っていない。 多少のキャンペーンを行なって その店の歴史の中では最高売上が出たようだ そして、年が変って1月には 先月の12月の繁忙月の売上を塗り替え 13ヶ月連続で前月売上を越えるという結果となり 本部の見る目も変ったよなあ(コロッと) 地区オーナー会でも、本部長が 「池島さんすごいですねぇ」 スーパーバイザーも 「池島さん」から「池島オーナー」に変っていた。 25坪の店に社員4人バイト2名構成 社員がもったいないので、バイトを増やして 昼間のランチを始めて収益効率を高める動きも行なった それは、カレー専門にしたが 結果的に半年で終了・・・ 居酒屋の昼ランチは不効率で収益率が悪い。 基本的に、料理の知識がなかったため FCから始めたが、オープン当初から オリジナルレシピーを溜めていき いち早くオリジナル転換を行なう予定 だった 売上は順調 社員は4人も要らない しかし、まだオリジナルコンバートはできない そんなタイミングの時に 本部から、市内のオフィス街立地にある店舗の 譲渡の話があるのでどうかと持ちかけられた 休みの日に一人で視察に行った あまり客は入っていない 周りの店舗や人通りなども数回に分けて 調査し、建物の古さや間口の悪さなど 引っかかる部分があったが 2年目で沈滞ムードになる前に 複数店出店という風を入れたかった思いが強く GOした。 ----- 『一つ目の失敗は、ここです』 -------- この店舗は40坪ありましたが 店舗譲渡が1200万だったのです 逆に保証金は350万と安く トータル出費が変らないと考えてしまった しかし、冷静に当時の相場でも 500万の価値もない物件だった 今なら100%承諾しないし 値下げ交渉を行なっていたところだ そして立地や間口に対して ひっかかる要素がある場合は出店してはならない 内装や設備も古かったので 階層と新設備の階層工事をおこなった 工事中であり、1号店を閉めて 全スタッフで慰安旅行に行く日 午前9時、駅に集合予定 しかし、慰安旅行にはいけなかった 午前5時46分 ドーンッ!! 阪神淡路大震災です 店が終わって、片付けをして 家に帰ると午前2時頃になる 風呂に入って、メシ食って 床に就くのが3時過ぎるので 「あぁ明日、慰安旅行で早いから寝れないな」 そんな風に思いながら眠りについた その数時間後 ドーンッ!グラ〜グラ〜グラー 「痛っ、う〜ん」なに?と寝ぼけ状態だったが 「ギャーーー!」と向こうの部屋から悲鳴が聞こえ 一気に目が覚める 「大丈夫かーー!」 家族の身の安全を確認し パニくりながら、玄関へ行ってドアを開ける ほんとに思考が働いていない状態で 真っ先に行なった行動が「ドア」を開けたこと 何かの本で読んだのか 地震の時に玄関が変形して閉じ込められないように 玄関を開ける、ガスの元栓を閉める なぜか、この2つをとっさに行なっていた。 とにかく、ちょっと大き目の地震だった そう思ってた、ただ単純に。 まだ数時間しか寝ていないし もう一度寝よう、そんな感じだったが しばらくして、またやや大きいのが来たり 余震が続くので、これはちょっといつもと違うぞ テレビを見ながら、確かに地震速報がやっていた まだいつもと同じような伝え方だった この時点では、旅行に行く気満々という どんくささを発揮していた 念の為、メンバーに電話してみて 繋がる者と繋がらない者がいたが 繋がった奴と話し、一回店で集合ということに まず、1号店に車で行く時 すべての信号が消えていた そして1号店は山の上の方に位置しており 行く道で下の町並みが見える所がある そこで見た光景は まさに 戦時中のような、火の海状態だった 「マジか!」 「これ、一体どうなってんの?」 一気に不安と得体の知れない衝動が走る 店に着いて、鉄扉を開けて入ったとたん すべてが「ごま油」のニオイで充満していた 棚の上においていた調味料やお酒がすべて 落ちて割れていたからだ そして大型冷凍庫などもすべて倒れていた 「うわっ、なんじゃこれ!ひどいな。」 続々と社員も集まってきて 冷蔵庫などを元に戻し こぼれているものを掃除し 暫定的に対応していった 幸い、壁にひびなど少し入っている程度で 大きな被害には至らなかった。 ある程度片付いた所で、数名を残して 改装中の新店を見に行くことにした その道中の光景もすさまじいものだった もちろん信号がすべて消えているので 交差点での行き交いがお互いの判断ひとつな訳で 譲る余裕のない人、譲ってくれる人 それぞれの人間模様が垣間見える そして、街中に出る辺りで 道路が大きく陥没していた 車が裕に3台は入ってしまうような大きな穴だ スピード出してたら気付かずに突っ込む人も いるかもしれないぞ、危なかった。 ようやく新店に着いた ビルは大丈夫なようだ そして、シャッターを開けて店の中に入ると 工事中なので工具が散らばっていた まあこれは普通かと思った次の瞬間 レジの前の床がぼっこりとへこんでいる 2メートルくらいの円形にぼっこりと。 もちろん厨房機器は全てが倒れていて 天井から水が漏れていて座敷は水没していた 「おーい、2週間後オープンなんですけど・・」って 心の中で叫んでいた。 新店の方もある程度、片付けをして 内装屋も家主も電話が繋がることはなく どうすることもできないので、1号店に再度戻った。 我々が1号店に戻った頃 だいぶ片付いていた みんなで話し旅行はもちろん中止 一旦、自宅に戻って待機し連絡を取り合おう そう決めて、解散した。 私も家に戻って、再度安全を確かめ テレビのニュースに見入っていた もちろんこの間も大きな余震が続いている 一番衝撃的だったのは 阪神高速の倒壊の映像だった あれを見た時は、ほんとに一大事だと頭でも掴めた そして夕方くらいになると 回線がパニックになっていて ほとんど誰とも電話が繋がらなくなって 水道から水もでなくなっていた 水を貯めることをしていなかったので かなり不便をした(これは教訓) そしてマンションの外壁にもひびが入っていたことや 1キロも離れていないマンションが真っ二つに割れていたのを見て 余震が続いている状況やマンションの倒壊の懸念があったので 動くことを決断した 動かずに埋もれるくらいなら動こうと・・・ そして、マンションで仲良くしているお宅に うちは学校に避難するけど一緒にいくか?と なんで?、動いたら余計に危険かも知れないというので OK、じゃ、うちだけ動きます。 気を付けて。。。 家族と最低限の荷物を詰めて 車で避難所となっている小学校に向かった もう、すごい人で 車を止めるのもギリギリなくらいだった 校舎に入ると、廊下や階段、教室などに みんなバラバラに座り込んでいた うちの家族も廊下の端に場所を確保し とにかく座って落ち着こうとしていた でも、相変わらず余震が続き 揺れるたびに一斉に「うゎ〜恐い」とみんながざわつく。 これはもしかしたら 校舎(建物)内にいるほうが危険かもしれない そう感じて、校庭に止めている車の中の方が 安全かもしれない。そう感じた。 携帯はまったく繋がらない 周りを見ればあちこちで火事になっている 学校内に2台だけ繋がる公衆電話があり 長蛇の列になっていたが、そこに並んで 30分くらいしてようやく回ってきた そう、ずっと連絡してなかった 実家に電話をして「生きてるから」 それだけを伝えた そして陣取ってる場所に戻ると 「あれ、布団は?」 「戻ってきたらなくなってた」 「マジで!取られた」 最悪な感情を抱いた こんなにみんなが同じく大変な時に なんで、そんな悪いことができるのか ムカツクと同時に情けなくなっていた。 布団がないなら寒いし 車に行こう 車の中でただじっとしている 自動販売機もすべてが稼動していない お金があっても、なんの価値もない お金の価値がなくなった時 人々は本性で生きていく そう強く感じた経験である そう、手元にあるもの以外 お金などなんの価値もないこと その時、その場では お金持ちも貧乏人もみんな同じ避難民 小学校で2日ほど過ごし 配給されたのは「何も塗っていない食パン」 有難いような、虚しいような、有難いような 何とも微妙な気持ち脱兎ことを憶えている。 3日目に家に戻って ほとんど寝ていなかったこともあり 安堵からか爆睡してしまった。 しばらくして、スタッフ達に電話したら (この時点では携帯が繋がる様になっていた) 私だけが2日以上、連絡とれなかったので 心配していたということだった 池島さんが死んだかもしれない 次の社長を誰にするかジャンケンしていたらしい(笑 三宮(神戸最大の繁華街)では 道路にビルが平気で倒れている ほんとに映画の世界が目の前で起こってるんです あの倒壊した阪神高速のすぐ傍を通って 家族を実家に預けることにした ライフラインもままならないし 余震も恐いから、仕方なく判断した 私は一人残って 店の対応など進めて 新店の改装のやり直しの手配や 1号店の復活などを指揮した 1号店は前にも言ったように 山側に位置している為、被害も少なく ガスの復旧も早かったので営業を再開させた もちろん、メニューは一部しかなかったが 文句をいう人などいない あいているお店が少なかったので 有難がられたようだ。 新店要員スタッフもそちらの店で従事させ 改装工事が終わるのを待った。 1ヵ月後 ようやく、内装工事を終えたが まだガスが復旧していない 色々調べてプロパンならボンベで対応できる ということで、コックをプロパン用に取り替えて ボンベを遠方まで買い付けに行って対応することに。 オープニング 通常、居酒屋のオープンでは 生ビール100円だったり 半額金券返しなどが定番だったが 地震後、それぞれに色々あって 仕事に復帰している人、県外に逃れたままの人 色々あるし、今回の地震で「お金の価値」が変わったのもあり 3日間、無料 そんな無茶なことを考えついてしまったのです。 チラシや配布用ティッシュを製作して オープン前に駅前で無料なので寄って下さい そう宣伝した オープン当日 ビックリした 17時の開店を前に、15時には行列が出来ていた フルメニューの中から、ひとり 料理が3品とドリンク2杯まで無料 並んでる人に申し訳なかったので 少し早めにオープンさせ、いざ開店。 並んでいるわけだから オープンと同時に超満席なわけです ということは、オーダーが一気に全卓分入る訳で 厨房が回るわけもなく、料理が出ていかなかった それでも必死で回して、私も中に入ったり 運搬したり、案内したり飛び回ってました 無料なこともあり、怒られることは少なかったが それでも席に着いて40分も何も出てこなかったら 「まだかかりますかね」くらいは言われ続けます 「申し訳ないです」「ホントすいません」 謝りっぱなしです 。 1品だけ食べて、我慢できず帰る人も居たし 本気で怒って文句言って帰った人も数人いました 仕方ないですね、無料であっても 料理が出せないことはこちらが悪いですから そんな中、営業中にプロパンが切れたのです 予想以上のお客さんの数と1本当たりの消費量が 計算が予定よりも少なかったのもあって足りなくなった 急いで、スタッフの一人に車で買いに行かせました。 店の前では、19時になっても20時になっても 相変わらず行列です 後から聞いた話ですが プロパンを買いに行ったスタッフがボンベを持って 店に戻ってきた時に、並んでいるお客さんたちが 「おぉぉぉー」って拍手してくれたらしいんです 忙し過ぎて、回らない もちろん休憩もない 作っても作っても伝票が減らない中で その拍手と歓声が彼はものすごく感動したようです 自分がやっていることがこれだけの人達に喜ばれている ガスも復旧してないこの時期に しかも無謀な無料企画で クシャクシャになりながらでも やってよかった ほんとに良かった。 この時のことを、未だに彼は 最高の瞬間だったと言います。 私もレジで一応、伝票に目を通して 料理3品、飲み物2杯までを見て はい「ありがとうございました」というと お客さんから「いや、こちらこそ有難う」って 多くの人に言っていただきました 家をなくされた方、まだ仕事が復活していない方 家族を県外に連れて行って単身になった会社員 もともとホームレスだった人 カップラーメンばっかりになっていた人 色んな人がお見えになり 多くの有難うが生まれました 3日間で延べ700名強の来店客数でした それ以上は入れなかったしさばけなかった オープン3日間の売上 0円 新店のオープニングキャンペーンが終わり 通常営業に突入したが オープニングでいきなり知名度が上がったことと やはりまだ、開いているお店が少なかったことなどが 奏功して、非常に忙しいスタートを切ることができました。 スタッフをフル動員していても、休憩などいける余裕はなく まかないは営業終了後に食べていた 遠方のアルバイトも電車で帰らせていると 店が回らないので、往復1時間以上掛けて 車で毎日送り届けるほどだった 1号店も新店も、超忙しい日々が続き 10ヶ月ほどかなり優秀な数字を上げた 年商1億 少し届かなかったが9900万ほど売れた それまで少なく設定していた我々の給料も一気にUPし ボーナスもたっぷり支払った この時、月収110万円、27歳である。 実は、実報酬は抑えてプールしていたのだが 税務署の方が見ているとアレなので詳しくは書かないでおこう。 ------------------------------------------------ 法人所得を最大でプールする方法に関しては 個別にメールしてくだされば知っている限りの 方法をお知らせします。 ------------------------------------------------ そんな、震災バブル的な1年が経過し 利益もウハウハだったことで社員も増やして オフィスを借りることにした 新店の近くのライオンズマンションを借り 店は各社員2名に任せてオフィスワークに移行した ようやく、社長業だ! 現場にはほとんど入らず 事務所で次の出店計画や既存店のマネジメントを メインに仕事をしていたのだ マネジメントや飲食経営などの色々な本を読み漁り 繁盛店のリサーチや物件リサーチなどを行なっていた スーツを着て、店に行きQSCチェックを行なったり 会議と称して社員を招集しミーティングを重ねていた。 しかし 何か、心の中で焦りを感じる う〜ん、なんだこれは? 自分が勉強したことを伝え より魅力的な店作りの為に発信しているのに なんだ、なんか反応が薄いぞ 質問しても、「頑張ります」って そうですね「言われたことを摂りいれていきます」って 返事はするけど、入っていない。 現場と本部の隙間 現場=現実 本部=理想論 そんなふうに感じ出したのです 一緒に汗を流している時は、そんなことなかったのに ひとり、オフィスワークでスーツ着てって。 自分の中では、すごく淋しい感情を抱きました スタッフとのみに行くことも少なくなった 社長と現場という隔たりができた。 そして私は次の失敗行動を取ったのです ----- 『二つ目の失敗は、ここです』 -------- 理想を求めず、現場に近づいたこと 現場ワークせずに、オフィスワークして 社長として給料もらっているより 今までのように、店で笑って頑張って 帰りにのみに行く方が楽しい 当時スタッフの中で麻雀が流行ってたので 積極的にその輪に入ったり、飲みに行ったり 制服を着て現場に立ったりしたのでした もちろん、今まで同様 物件のリサーチや会議も続けていたが 幹部社員への求心力を失っていると感じていたので まったくベストの選択をせず、本人がどう思うか? そればかり考えるようになっていた この失敗経験は、今から見れば最大の失敗だったと感じる 事業的に見れば、ハナタレ小僧の判断である 判断に従わないなら切る 優秀な人材の確保など、いくらでも方法はあった のに 出稼ぎ時代から共に苦労をして こいつらと一生、生きていこう その呪縛というか、固定観念が外せなかった 強引にでも理想を追求し 私のペースで進めていくことで 拗ねた奴は自然と落ちるか再生する 今ならそう考えられる ほんとに、二店舗までは 年齢的にも実績的にもワタミグループの 渡邉さんと変わらない状態で進めていたのに それ以上大きくできなかったのは 自分の器の問題だったと強く感じる 中小零細、友人との起業など 同じような環境や思いを味わったことのある経営者層の 方も多いと思う。 ここの判断はほんとに大事だし 「なかよしこよし」では事業は上手くいかない! 飲食事業の失敗で私が一番伝えたいのは 今日のこの失敗です 今現在、渦中の方は是非とも 反面教師にしていただきたいと思う。 その後は、結局1号店を閉め 新たに新店を開店したが 結局は、二店舗止まりで 売上の減少対応や社員の統制に追われて 現場に舞い戻り、朝から晩まで働くことになった。 それから数年後 徐々にインタネットビジネスに足を突っ込むのである・・・ ネットビジネスに参入してからの経緯については ⇒ ブログに行って文章を読む。 |
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